番外編:フランス短期留学+ホームステイ+インターン

トロカデロ広場 ©️Michael DelloStritto

こんにちは。今日は本当は「留学先としてイギリスを選んだ理由」を書こうと思っていたのですが、色々思い入れが深くまだ書き終わっていないので、代わりに番外編として、イギリス大学院留学のはるか前に行ったフランスでの語学留学について書きます。勉学が血肉となった分ハードだったイギリス留学と比べ、いいとこ取りで楽しい思い出ばかりのフランス語学留学。前回ブログで少し触れたら意外にお問い合わせがあったので、ご紹介できればと思います。

前提として:海外営業の舞台としてのパリ

私は東京の劇団で海外公演(国際事業)担当のプロデューサー/マネージャーとして働いていました。2005年に仕事を初めて以来10年間、毎年最低1回、多い時には年5回、6回と海外公演があり、その多くを担当していたので、私は10年間で22カ国の公演に随行しました。この海外公演の多さは、日本のどの劇団でも経験するものではなく、私の所属していた劇団は日本では稀に見るほど海外公演の多い劇団でした。実はこのこととフランスの演劇界が大きく関係しています。

私が所属していた劇団の作品が初めてフランスで紹介されたのは、私が入団するよりはるか前の1998年でした。FIFAワールドカップフランス大会に合わせて、テアトル・デュ・モンド(世界の演劇)という、ワールドカップ参加32カ国から代表選手となる劇作家を1名ずつ選出し、その作家の作品をフランスの演出家がリーディング上演するという企画で、私のいた劇団の作家の作品が日本代表に選ばれました。パリでのリーディング上演が人気を博し、2002年に劇団自体が日本から招聘され、初めてパリで公演しました。

フランスの演劇界は作家同士の結びつきが強く、お互いに作品を良く見ます。劇団のパリ初演を見た他のフランス人の演出家から、コラボレーションのご依頼があり、ご本人を日本にゲスト演出家として招いてフランスの作品を上演したり、私たちの劇団が再びフランスに招かれて上演したり、ということを繰り返しているうちに、2004年ごろからほぼ毎年フランスで劇団の作品が上演されるようになり、特にフランスの演出家とのコラボレーション作品は、現地の演出家ご本人のフランスでの展開にも関わるので、多くの場合パリで上演されました。そうして、劇団の作品は数多くフランス語に翻訳され、フランスでは「日本の演劇といえば」という存在になっていきました。

私が劇団に入った2005年はちょうどそのようなフランスへの展開が増えてきた時期でした。右も左も、フランス語はもちろん、英語さえよくわからないのに、入団当初から海外公演担当となり(本当は高校生向けの演劇ワークショップの担当を希望していたのですが!!)海外公演の実務を経験していくうちに、気づいたことがありました。それは、「海外公演は、貴重な営業機会である」という点でした。ヨーロッパの演劇の商習慣として、プロデューサーたちは舞台を生で必ず見ます。映像資料があったとしても、生で見るまでは作品の売り買いを検討したりはしないため、必ず劇場に足を運んで交渉します。ですから、外国での上演機会を得たければ、外国のプロデューサーがいるところまで行って上演するのが早道です。

そうして、2007年に初めてフランスを含めた欧州3カ国の2ヶ月にわたるツアーの担当を任されたとき、各国語の翻訳台本や、映像資料、過去の現地での新聞掲載記事のコピーなどを大量に携えて渡航し、いく先々でお会いしたプロデューサーや劇場芸術監督にお渡しして、「ぜひお招きください」と挨拶し、そのいくつかは実際の仕事へ結びつくよう交渉に持ち込んでいきました。今回のブログで書いた、パリ語学留学のきっかけとなったジュネーブ公演もそのようにして、ジュネーブのフェスティバル・ディレクターがパリまで公演を見にきてくださったことがきっかけで実現し、その後、2011年にはジュネーブに公演を見にきてくれたイタリアの演劇祭に招聘されました。翌2012年には旧知のパリ郊外(ジュヌヴィリエ国立演劇センター)の劇場芸術監督の招聘により再びパリ公演が実現し、それを見たスペインのフェスティバル・ディレクターが2013年に招聘を決めました。このようにしてパリを起点にたくさんのプロフェッショナルに作品を見ていただくことにより、毎年海外公演の機会を得られるようになったのでした。海外ならどこでもいいわけではなく、パリでの上演が重要な営業機会だったことは言うまでもありません(他にベルリン、ブリュッセル、ロンドンなど拠点となる都市はいくつかあると思いますが、私たちの劇団にとってはパリが重要でした)。

短期留学の概要

場所:パリ

時期:2009年9~11月

期間:3ヶ月(語学の勉強は2ヶ月)

活動:語学学校でのフランス語の勉強、フランス人家庭でのホームステイ、フランスの劇団事務所でのインターン

「最初からイギリスに留学する予定ではなかったのか?」と言われそうですが、その通りです。私がパリに

語学留学したのは21年のロンドン留学に先立つこと12年前。当時29歳で、東京の劇団で主に国際事業のプロダクション・マネージャーとして働いて4年目で、仕事が忙しかったので、高校時代からの留学の夢を引き続き抱いていたにもかかわらず、相変わらず留学して何を学びたいのか、はっきりしていませんでした。それでも、入団した当初、劇団の代表に「3年うちで働いたら文化庁の新進芸術家海外研修制度に推薦してあげるから、頑張ってみれば」と言われて、チャンスを掴みたい一心で働いていました。実務経歴3年となった際、いざ文化庁に応募する段階になった当時は、今とは興味関心が大きく異なり、市民参加の演劇作品のプロデュースに関心を持っていたので、フランスではその分野で定評があり、以前劇団の仕事でご一緒したことのあるフランスの演出家、パスカル・ランベールが当時芸術監督を務めていた、パリ郊外のジュヌヴィリエ国立演劇センター(Théâtre de Gennevilliers https://theatredegennevilliers.fr)での研修を計画していました。しかしながら2年連続で書類審査は通過するものの、面接で不採用となってしまい、2009年当時は精神的にもかなり腐っていた時期でした。

このまま留学のことを忘れて、忙しく仕事をこなす日々を続けていていいのだろうか、と迷いが生じ、悶々としていたその年の3月、劇団が翌年度(2009年度)に予定していたスイス・ジュネーブへのツアー公演に関する助成申請が採択され、私がそのツアー公演を担当することになりました。「今だ!」と思い立ち、劇団の代表に相談して、スイスでの公演終了後そのまま2ヶ月間現地に残り、語学学校に通いたい旨を相談しました。本来研修先として計画していたジュヌヴィリエ国立演劇センターの事務局長から「あなたの熱意は評価するけど、この国のどんな劇場でもフランス語がわからなければ仕事はできませんよ」と言われていたので、せめて次に劇場研修のチャンスを掴む時に向けて、フランス語を勉強したかったのです。その後ジュネーブの物価の高さや語学学校(ジュネーブはスイスのフランス語圏最大都市)の選択肢が限られること、そして仕事関係の知り合いが多いということもあり、ジュネーブではなく、パリに滞在することに決めました。HISの語学留学専門の窓口に相談に行き、語学学校とホームステイのパッケージを紹介してもらいました。

そうして、2009年9月にジュネーブのラ・バティ(La Bâtie-Festival de Genève)という国際芸術フェスティバルでの公演が終わったあと、日本に帰国せずそのままパリへ移動して、短期留学生活が始まりました。

パリでの生活

(1)語学学校

学校名:France Langue https://sejour.fl-france.fr

レベル:中級

授業時間:1日3時間(16:30~19:30)

初日のオリエンテーションの後、レベルわけテストを受け、中級クラスに振り分けられました。France Langueは4週間で1つのテキストをコンプリートし、その段階でより上級のクラスに編入するか、マスターするために同じクラスに残るかを相談できるシステムでした。語学学校なので当然ですが、クラスメイトはフランス人やフランス語話者以外で、欧州の人が中心でしたが、世界各地から集まってきていました。日本人はそれなりにいましたが、中級は、私とワーホリで渡仏し美容師の修行をしている人の2人だけでした。私は大学時代の第2外国語がフランス語だったので、基礎は踏まえていましたが、4週間でマスターした感じはしなかったので、同じテキストを2周することにしました。

(2)ホームステイ

旅行会社のパッケージとして紹介されたホームステイ先は、パリ15区の落ち着いた住宅街にあるアパルトマンにお住まいのマダムの家でした。年配のマダムが一人で住んでいる、と聞いていたのですが、実際にはマダムの他に、離婚して出戻ってきた息子さん(私と同い年)、息子さんの1歳と3歳のこども、同じくホームステイしているウクライナ人のモデル事務所研修生の5人家族でした。部屋は十分にあり、マダムも親切で何も不自由はありませんでしたが、意外に大家族でした。

ただ、途中で問題がおきました。息子さんとの大喧嘩の末に、マダムが親戚の家へと出て行ってしまったのです。息子さんは仕事があって保育園に行っていない下の子の面倒を見る人がいなくなってしまったので、なぜだか私が午前中家で語学学校の宿題をしながら留守番し、下の子と遊んであげる、という日が続きました。フランス人の赤ちゃんと遊ぶ貴重な機会だったので、不満はなかったのですが、見かねた息子さんの新しいガールフレンドが毎日家に来てくれるようになりました。リュドビーヌという人で、英語が堪能だったので話し易く、フランス語の勉強にはなりませんが、いい友達ができました。息子さん、リュドビーヌ、モデル研修生と私の4人でよく飲んで語っていました。

(3)インターン

当初は語学の勉強とホームステイだけで、インターンをする予定ではなかったのですが、ホームステイ先のネット環境がいまいちだったので、パリにある知り合いの劇団の事務所にお邪魔することにしました。演出家のアルノー・ムニエとは、2009年には4月〜6月にかけて新作の国際共同制作作品を東京で稽古し、日本ツアーを一緒に回ったばかりでした。その後、翌2010年1月からは同じ作品のフランス・ツアーが控えていたので、アルノーの事務所との仕事は続いており、日本側からの出演者・スタッフの送り出しはいずれにしても私の仕事でした。そこで、私は毎日アルノーの事務所にお邪魔して自分の仕事をするようになりました。日本側の仕事をフランスでやっているだけなので、厳密にはインターンでもなんでもないのですが、ツアーで回る劇場の下見に同行させてもらったり、フランス側の広報資料の作成もお手伝いさせてもらいました。また事務所に送られてきた他の劇団の公演の招待券を分けてもらったり、事務所に訪ねてくる演劇関係者に紹介してもらったり、とフランスの演劇業界の商習慣を色々と教えてもらえた貴重な機会でした。事務所のスタッフの皆さんに語学学校の宿題も時々教えてもらったりしていました。

(4)そのほか

そんな感じで、毎日午前中は宿題、午後はインターン、夕方から語学学校と忙しかったので、遊ぶ時間は夜と週末だけでした。

・とにかくここぞとばかりに観劇していました。シャイヨー国立劇場、コリーヌ国立劇場やパリ市立劇場ではフランスの演出家の作品だけではなく、外国の作品もよく上演していたので、日本ではなかなか上演されない世界各地の舞台作品を見る貴重な機会でした。またパリ・オペラ座の一番安いチケットを買ってしょっちゅう足を運んでいました。

・語学学校が提供しているエクスカーションがあり、「サンジェルマン地区を歩く」「カタコンベ(地下墓地)をいく」のような観光的なものから、アラブ世界研究所や、植物園の中にあるアラブ風のティーサロン、クリニャンクールの市場などローカルな場所にもよく行きました。

・語学学校の友達がクラブ好きだったので、日本ではろくに行ったこともないのに、クラブによく行っていました。お酒を飲んで騒ぐというよりは、思っていたよりも音楽を聴きに来ている人が多かった印象です。Batofarというセーヌ川岸に停泊する船を改修したホールによく行っていました。今でもあるのかな?

・暇な時、疲れている時、落ち込んだ時は、シャイヨー国立劇場の外のトロカデロ広場によく足を運びました。語学学校へ行くメトロの乗り換え駅に隣接した場所にありました。この広場からはエッフェル塔が正面から見えて、「色々思い通りに行かないこともあるけど、とにかく私は今パリにいる」と実感することのできる場所で、自信をもらっていました。思い出深い場所ですが、観光地でお土産を売りつけられることも多いので要注意です。

2ヶ月間のフランス滞在で、特に仕事に使えるほどフランス語が上達したわけでもないし、その後のキャリアにつながるような出来事もなく、ただただ楽しく過ごしただけでしたが、旅で訪れるだけでは見切れないほど、たくさんのパリの魅力を味わえたことは、一生の思い出です。その後も2019年までは1年に一度は訪れていた、大好きな街です。

以上、イギリス大学院留学とは関係ないけど、フランス語学留学について、お読みくださってありがとうございました!

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